
日本のほとんどの対談や討論と銘打った本を読んでいて、ガックリするのは、登場者が互いの意見に同意してばかりで、ちっとも討論しないことですね。
そうそう、とか、その通りです、とか、おっしゃる通り、とか馴れあい、時にはそこにいない第三者の敵に仮託して、悪口言ってカタルシスしてとか、ああいうのって読んでいて不気味になります。
また逆に「朝生」が元祖でしょうが、討論というより感情的な悪口とケンカを見せるテレビ番組も増えてきました。「そこまで言って委員会」とか「ニュース女子」とか、論の交わしあいではなく、専門家の一方的な説明か、ケンカに終始し視聴率を叩き出しています。
角を立てないのが日本のコミュニタリアニズムですので、しょうがないのかもしれませんが、欧米のコミュニケーションというのは、全く異なる宗教や政治思想、言語や人種、考え方や風習などを持つ人間同士が、討論を含めた論を交わしあって、譲るところは譲る、相手の立場を少しでも理解して共存の可能性を探る、ということです。
それができることを、コミュニケーション能力というのであって、同質の人ばかりが集まって仲良く付和雷同することではありません。
ですから欧米人は激しい討論の後もアッサリしてますが、日本人の場合、理解も譲歩もなく、論破されたら根に持ってもう宿敵、みたいなかんじです(笑)
すなわち、討論の開始 = ケンカ と。
言わんでも、わかるだろ
腹を読んでくれ
得心してくれ
あ・うん
これが日本のコミュニケーション。
伝える工夫をしなくても、相手が宇宙人くらいだと頭の中をテレパシーで読んでくれるかもしれませんね。
ABD個性運命学