【意味という病】

1970年代、「意味という病」ということを、評論家の柄谷行人が論じていました。

 

昨日の補足ですが、意味を考えるというのは、人間以外の動物は行いません。この意味を求め悩み続けるという苦しみ。たしかに病気みたいなもの。

 

むかしむかし、知恵というリンゴの実をかじったアダムとイブが、エデンの園から追い出され、悩むという永遠の罰を背負ったのは、そういう意味を指します。

 

仏陀は意味を追い求めることが苦しみの元だと説き、儒家も人為された意味ではなく天地人一体となり自然のままでいるのが君子だとし(人為と書いて、偽と読む)、アマテラスは神の意を映せと鏡を与えたもうた。

 

世の古今、東西を問わず、人の苦しみの最大のものは、意味を求め続けるということで、それに答えようとしたのが宗教なのでしょう。

 

150年くらい前までは、技術革新やそれによる社会発展がほとんどありませんでした。生まれてから死ぬまでずっと同じような価値観。こういう社会では、人生に意味や目的を求めても、死ぬまでにゴールがあったかもしれません。生きる意味という面だけ見れば、きっと幸せだったことでしょう。

 

けれども現在は、ある目的を達成してみたところで、目的の方が先により遠くへ行ってしまいます。

 

人間には上には上があって常に競争で、それが推奨されてさえいるのですから、自転車で新幹線を追いかけているようなもので、価値観もどんどん先へ行ってしまい、ゴールがありません。

「無念」という言葉の大量生産時代です。

 

そんなくたびれ儲けはやめて、せっかくあなたはあなたに生まれたのだから、誰かに意味を付与される必要なんてないじゃないですか。誰かに認められようとする前に、まず自分が自分を認めましょう。

 

それが次世代を生きる知恵となります。苦しみ転じて、知の喜びと為しましょう。