【14日の言語のこと】

14日の投稿の「およそ是非を説(と)えば便ち(すなわち)是非を生じ煩悩を生ず」について、少々不親切でしたので念のため補足しておきますと、

 

王陽明先生が言うのは「善いだの悪いだのと口にしたり聞いたりするから、現実に善いだの悪いだのが発生して、悪いことを善いことにしたいという欲求が生まれる」という意味で、つまり「人生にそんなことの是非を論じている暇があろうか。自分の純粋な心(良知)の欲するままに行動せよ」ということですね。これは朱子学の「致知格物」に対するアンチテーゼとして提出されたものだと思います。

 

で、そのあとなぜフランス語なんだ、ということに関して、フェルデナン・ド・ソシュール〈1857-1913〉というスイス人でパリ大学の言語学者が、現代も主要な思想である構造主義の名付け親となったことからでした。

構造主義の始まりの構造言語学の大元の記号論を生み出したソシュールは、(間違いを恐れずごくかんたんにいいますと)「世界を作っているのは言語である」と主張したのです。

 

あるものの名称について我々が考える常識ではもともと世界というのがあって、そこにはのちに山とか川とか犬とかネコとか呼ばれるものが最初から存在していて、それらに遠い昔の人や神様がいろいろと名前をつけた、と考えがちですが、そうではなく、逆に名前をつけることによって世界や事物が形成されていった、とソシュールが「発見」したのです。

つまり名前のついてないものはこの世に存在しない。名前をつけることによって世界の中に新たなもの(認識)が生まれる。そして世界を区分けしているのは言語であるから、おのずから言語が異なる民族間では世界の区切り方、見え方、あり方は全く異なるのだ、ということです。

たとえば日本には魚の名前は数え切れないほどありますが、アフリカの内陸部では「青い魚、赤い魚」しかないそうですから、その世界にはマグロとかタイとかイワシは存在していないのです。

(ソシュールでは「羊」がよく扱われます。羊はフランス語では mouton で、英語では sheep 、「羊肉」は mutton ですが、フランス語にはシープにあたる単語はありません)つまり言語は、世界を区切って認識する道具=記号 なのだと。

これは日本のマンガによく描かれる汗の絵や、邦画の真夏のシーンのセミの音声がアメリカ人になんことだかわからなかった(北米にはほとんどセミがいません)、というのがその象徴性、記号性を証明しています。(ひらがなの「し」のような絵・シニフィアン = 困っている、焦っている様子・シニフィエ  漢字は象形文字もあるので、記号か象徴か? )

 

こういった考え方はソシュール以前からありましたが(たしかヘーゲル〈-1831〉あたりが元祖かと)、「構造」言語学という名称が元になってそのあといろいろ紆余曲折があって構造主義と呼ばれることになり、それまでの実存主義にとって変わったのです。

まぁ構造主義の説明は書き始めると1000ページくらいになってしまうのでここでは不可能ですが、驚くべきはソシュール、ヘーゲルよりも300年くらい前の明代の王陽明が、似たようなことをサラっと言っていることです。

(もっと類推すれば、仏教の唯識が元祖か?)

 

で、この日言いたかったのは、もしかしたら人生も、考え方、見方次第でどうとでもなるということなのです。