【シュメル人国家】

メソポタミアのシュメル人国家といっても、現代のように一つの民族国家をいきなり形成したわけではありません。構成人種もシュメルばかりではなく、北部にセム系のアッカド人、南部にシュメル人と棲み分け、互いに異端視せず、同じ神を崇拝していたようです。

 

それぞれがチグリス・ユーフラテス川沿いに複数の都市を作り、各々が張りあい、民族間ではなく都市国家間で、しょっちゅう戦争もしていました。

それぞれの都市は自分たちだけの神を持ち、そのつど勢力を得た都市に王朝が移り、大いなる神が負けた神を支配下に置き、そのようにだんだん統一に向かいました。このあたりは、日本の戦国時代をイメージするとわかりやすいかもしれません。

 

そして、メソポタミアにおいて最初の統一王朝を打ち立てたのは、シュメル人ではなくアッカド人のサルゴン王です(B.C.2334年)。その後、B.C.2113年にはウルクのシュメル王、ウトゥ・へガルのウル第三王朝がとって代わるなど、都市間で何度も王朝の交代が起こりました。

 

共存したこの二つの文明人は、周囲のセム遊牧民やエラム山岳民族を、文明を持たない野蛮人として徹底的に夷狄視しました。蛮族の侵入を防ぐため、都市部と農村を分ける都市計画を行い、都市には高い壁を築き、市内に上下水道を設け、都市同士を結ぶ道路を敷設します。これは、中国の中華思想によく似ています。

都市では祭祀や政治、商業や文化事業が行われ、農村では食糧生産や放牧、そして戦場として使われました。

 

法によって厳格に異民族の差別を行い、捕えた異民は奴隷にしました。奴隷は市民の所有物として売買しました。

少数民族が多数者を支配しようとするとき、もっとも有効な手段は身分制度の制定です。このような制度も東西へ広まり、特にインドでは、メソポタミアの文明を学んだエラム人(アーリアン=バラモン)が始めた、厳格なカースト制が、現在も残っています。

シュメルからは、こういった現代から見れば、文明の悪しき制度も発生しました。