【国富論】

「神の見えざる手」

アダム・スミスの『国富論』は有名ですね。

 

けれども実際に読んだ人は幾人いるでしょう?

 

『国富論』はかなり重厚な本で、岩波文庫で全4巻、総計2千ページほどあります。若いころの私は意味が半分もわからないまま休み休み読んで3ヶ月以上かかりました。

    

アダム・スミスが生きた18世紀のイギリスは産業革命のさなか、フランス革命前夜。当時の政府は王室や貴族が仕切る重商主義の時代。

  

すべての価値が金銀財宝にあり、銀産国である植民地へむけた輸出産業への優先的な資本投下、高い関税等によって王室と貴族が営む企業ばかりが潤い、劣悪な労働環境とインフレに悩まされる庶民は酷い境遇にありました。

        

スミスは、そういった王室や貴族の専制政府がとる政策のことを「見える手」と呼びました。反対に「見えざる手」とは、国内市場における自由競争のことですが、直接的な書き方をすれば投獄されかねない時代なので、こんな言い回しになっているのです。

     

そもそも「神の見えざる手」の「神の」は原著にはありません。あるのは「見える手」と「見えざる手」だけです。いつの間にくっつけられた「神」は、なにか意図するところがあるのでしょうか?

   

スミスが主張したのは、商品価値は金銀などにあるのではなく、商品が完成するまでに必要とされた労働力にあるのだ労働価値説)。

だからそんな「見える手」はいらない。市場における需給という「見えざる手」で必要とされるにまかせよ、と

    

そうしたことから、現在の新自由主義者はアダム・スミスをして、市場万能主義の元祖に据えています。

        

しかし、とんでもないことです。おそらくちゃんと読んでいないか、まったく読んでいないか、庶民が読んでないと思って都合のいい解釈提示をしているだけなのです

       

成長時代は企業や国家が富めば社員や国民も富みました。しかし現在は「18世紀英国の王室や貴族」が「グローバル資本」に取って代わっただけの金融主義の時代なのです。

    

大企業や大資本が富んでも、そこで働く従業員は稼道具とみなされるだけ。道具が富ことはありません。

     

ですから『国富論』は、経済学の本ではなく、あくまで人間道徳の本なのです。

もともとスミスは哲学教授です。彼から経済学自体が始まったので、そもそも経済学の本であるわけがありません。

     

    

「人民がものを考えないということが、政府にとっていかに幸せなことか」

 ヒトラー 

    

かように歴史は繰り返す。

アダム・スミスは現在こそ再読される時だと思います。